前大会に出した小説
一九九九年の七月三十一日、恐怖の大王が地球へやってきて、世界は滅亡する。ノストラダムスはそう言って、無責任に僕達の寿命を決めてしまった。
数分待って、ようやくホームページの青いトップ画面がスクリーンに浮かび上がる。地球防衛軍。
「みなさんこんにちは、お元気ですか。今日は一九九九年四月二日、地球滅亡まであと約三ヶ月です。同士よ、一刻も早く僕の呼びかけに応えてください。」
僕は暗い部屋で一人、コンピュータに向かってため息をつく。三十分前に出したメッセージに対するコメントは〇件。僕はあぐらをかいたまま、授業ブリントの海に倒れた。
中学一年の夏休み、未だその日のことは脳裏にはっきりと焼き付いているのだが、僕はクラスメイトにこんな話を聞いた。
「片瀬、お前地球滅亡の話って知ってるか?」
そのクラスメイト――森本は、細い腕をトレンディー俳優のように組んで言った。
「なんだよ、知らねえの? 結構有名な話だぜ」
「どうせまたあのオカルト雑誌に書いてあったんだろ。デマだよ」
「いいから聞けよ……」
世界滅亡。恐怖の大王。予言者、ノストラダムス。森本の口から発せられる言葉は、中学一年生の少年を震えあがらせるには十分すぎるほどだった。それからというもの、僕はその噂に取り憑かれてしまった。オカルト雑誌を読み漁り、コンピュータを持つ友人の家に居座って何時間でも調べ続けた。
そして中学三年の冬、とうとう僕はあるホームページを立ち上げた。
インターネットの広い海でなら、隕石を止めるほどの屈強な男も、地球の位置を変える天才科学者もすぐに捕まえられるだろう。そしてこの防衛軍を率いるのは俺なんだ、そんな少年らしい青臭さで作ったページに、当然人が集まるはずもない。訪問者は一日三人ほど、書き込まれるのは意味のない文字列ばかり。
しかし僕は、三十八歳になり高校で教鞭をとる今でも、そのロマンを捨てきれずにいた。
更新ボタンを連打しながら晩酌をしていると、唐突にインターホンが鳴った。友人たちにしてはやけに遠慮がちだ。それにもう夜十一時を少し過ぎた頃。恐る恐る僕はドアスコープを覗く。
そこには、大きなカバンを抱えた十四歳ほどの少女が立っていた。
僕は首を傾げ、急いでドアを開ける。生徒の一人だろうか? いや、高校生ならこんなに幼くは見えないはず。
「地球防衛軍、って、あなたの作ったサイトですか」
その少女は僕の目をじっと睨みつけながら、言った。
「とりあえず、飲みなよ、麦茶」
少女は首を振る。ダイニングに座らせてみたはいいものの、彼女は出された麦茶も飲まず、じっと僕のことを見つめている。正直、この少女には全く見覚えがない。
「まいったなあ……」
「だから、私をその防衛軍に加えてくださればいいんです。そしてここで訓練させてください。だってここ、基地でしょう」
先程から少女はその一点張りだ。
「君、本当は家出だろう? それにどうやって僕の住所を探り当てたんだよ」
「投稿されてたでしょう、オカルト雑誌に。しかも文通コーナー」
「あっ……」
そんなところまで調べられていたとは。僕は思わず唸ってしまう。
「いいでしょ、お金ならありますし、生活費は払いますから。それに私、今日泊まる場所がないんです」
僕だって大人だ。もちろんずっと居座らせる気などなかったが、こんな夜遅く女子中学生を外へ追いやる訳にはいかない。職業上、この年代の女の子を相手取るのにも慣れている。
「わかったよ、一晩だけは泊めてあげよう。でも朝になったらすぐ親御さんに連絡するんだぞ。それと、君の名前は」
少女はそれでもまだ不満げな表情をしていたが、渋々頷いた。
「私の名前、伊藤、恭子っていいます」
恭子は夜通し、自分がいかに地球防衛軍へ入りたいかを僕に訴え続けた。地球防衛軍はまさに善意の団体で、自分はいたく感動した。こんな中学二年生(彼女の年齢に対する僕の予想は当たっていた)は到底力になれないだろうが、是非協力させてほしい。
僕は少し残っていたビールを捨て、麦茶を飲み、適当に彼女の話に相槌を打ちながら、彼女のためにホットケーキを焼いた。
「僕に娘がいたら、君くらいの年齢だっただろうね」
彼女はそれを聞くと、とたんに嬉しそうな表情になった。
「地球防衛軍のリーダーの娘、ですか! 最高です」
僕は呆れてしまって、彼女の皿に積まれたホットケーキを一枚取り、そのまま食べた。こんなに枚数があったら、明日の朝も食べられるだろう。
「このホットケーキ、私が焼いたほうがきっと上手いです」
いつかね、と僕が言うと、彼女は毎日でも焼きますよ、と笑った。
眠りに落ちて暫く経つと、僕の頭はゆっくりと溶けていき、波紋のように恐怖の大王の声が響く。
「お前は独りだ、俺の存在を知ってからお前はずっと独りだ。ああ、地球を助けようなんて思わなかった奴らは、みんななかよく死んでいくぞ。お前はまだ、独りだ」
またいつもの夢だ。中学一年のあの夏からずっと、繰り返し見る夢。はっきりと意識があるのに、この泥のような夢から抜け出せない。僕はどうしようもなくもどかしい。手足をばたつかせ、暗い泥の中を泳ごうとしても、大王に砕かれてしまう。
「お前のことを、今まで一体誰が見た?」
腕を回せば、きっとこの泥を泳ぐことができる。
「誰一人周りにはいないだろう?」
「……瀬さん」
声を上げれば一人くらいはきっと気づいてくれる。
「まだ気づかないのか?」
「片瀬さん」
もっと大きく、大王の声をかき消してしまうほど大きく……
「片瀬さん!」
柔らかいものが手に触れ、僕は跳ね起きた。
「大丈夫ですか、だいぶうなされていたようですけど」
恭子は冷たい手でぴとぴとと僕の頬に触れてくる。まだ僕の息は上がっている。彼女は、地球防衛軍のリーダーがそんなことじゃ駄目ですよ、と言いながら、僕の脂っぽい額や首を、撫でるでもなくただ確かめるかのように触れていた。僕は机の上のライトを消し忘れていたらしく、それはまるで月の光のように、恭子の顔を照らしていた。
恭子はそれからしばらくしてふいと僕の部屋からいなくなり、リビングのソファで眠りについた。僕は浜辺に打ち上げられた流木のような、いやに優しい気分になって、そして眠った。
次に目覚めたのは、朝の六時半だった。リビングに出てみると、恭子が冷たくなったホットケーキを焼き直していた。
「なあ、昨日の夜は……」
「何のことですか?」
「いや、何でもない」
彼女はホットケーキに、そんなものが家にあったのかどうかすら分からないはちみつを回しがける。僕はぼんやりと、メープルシロップでも買ってきてやろうか、と思った。そしてそんなことを考えている自分に驚いた。
「とりあえず食事はいいから、早く親御さんに連絡を取ろう。僕がかけるべきかな?」
「その必要はないですよ」
彼女は食事の手を止め、僕の目をじっと見ながら言った。
「私、近くの私立中学に通っていて。下宿生なんです」
「いや、だからといって……」
「私、本気なんです。あなたと一緒に暮らしたいんです」
僕はため息をつく。地球防衛軍なんていうのは、中学生の青臭い妄想に過ぎないのだ。だからこんなことに、十四歳の女の子を巻き込むわけにはいかない。
自分が情けない。
「……僕がもう帰りなさいと言ったら、すぐに帰るんだよ」
恭子は弾かれたように立ち上がり、笑った。
「今日から四ヶ月間、よろしくお願いします!」
訓練といっても、何をしたらいいのか全く分からない。僕にできるのは現代社会を教えること以外何もない。地球を救うには必要だ、とすっかり失望した顔の恭子だったが、それでも渋々勉強を始めてくれた。
「何か他にないんですか? 有名な科学者と連絡を取るとか、国の軍を動かすとか」
恭子は唇をツンと尖らせながら言う。
「それが出来ないからあのサイトはあんな有様なんじゃないか。僕にそんな力があったら、とっくに地球防衛軍は揃ってるよ」
「せめて、もう一人くらいの兵はいないんですか」
いない、と言おうとして何か引っかかるものがあった。確か中学時代、僕にあの話をした森本は、面白半分で地球防衛軍の一員になっていたはず。
二十年ぶりに連絡を取ってみると、案外森本はあっけなく捕まった。今は隣町に住んでいるらしい。
「未だにお前、あの話信じてるのか。しかもそれで十四歳の女の子をたぶらかして」
「たぶらかしちゃないよ」
「そうですよ、私の固い意志です」
家から十分ほどのファミリーレストランで、僕たちは第一回作戦会議を開いた。中学を卒業してからだいぶ時間が経っているにも関わらず、森本は全く変わっていない。
「とにかく情報収集じゃないか? 社会を知ることは大事だぜ」
「私が言っているのは、もうそんな暇はないってことなんですよ。だから今すぐ出来るような策を」
「社会を知らなきゃ、協力してくれるような団体がどこにあるのかも分からないだろ」
恭子は黙り込んでしまった。中学二年生にしては大人びていると思っていたけれど、こういうところはやはり十四歳だ。
恭子がいちごパフェを食べている間、森本は僕を喫煙室に呼んだ。
「片瀬お前、あの子をどうする気だよ」
「どうするってそりゃあ……もう少ししたらあの子の家に帰すよ」
森本はタバコを口から離し、僕を睨みつけた。
「お前自分の職業のことも、あの子の親のことも考えてそれを言ってるんだよな?」
僕は黙ってしまう。
「あの場ではあんなことを言ったけどさ、やっぱりおかしいだろ。……お前、自分が寂しいからあの子を家に置こうとしてるんじゃないだろうな」
「もう行かないと、食べ終わってるかもしれない」
「おい」
僕の腕をつかもうとする森本を振り切って、僕はテーブルへ戻った。恭子はまだパフェを食べていて、うろたえた僕の顔を不思議そうに見つめた。
その日から恭子は大人しく現代社会の勉強をするようになった。彼女はきっと学校でも頭のいい方なのだろう、覚えは早く、質問も的を射ていた。
「うーん……やっぱり国連に掛け合うべきなんですかね……」
「それをあと二ヶ月強で叶えるのは難しいんじゃないか?」
彼女の案は毎回、実現可能性の著しく低いものばかりだったが、それをどうかわそうかと考えるのは楽しかった。
夜十一時頃、僕たちは眠りにつく。しばらくすると、また僕の夢の中に恐怖の大王の声が響く。しかし最近はその声と同時に、僕の顔や腕に、ぴとぴとと冷たい指が触れるのを感じるようになった。指が触れている間大王の声は小さくなる。さらに日を追うごとに、その声は段々消え入るような細い声になっていっている。
僕の目が覚めると恭子は大丈夫ですか、と笑い、リビングに戻っていく。
仕事が早く終わったから、今日は外食でもしようか、と考えていると、随分暗い様子で恭子が帰ってきた。
「片瀬さん……もう私、ここにいられないかもしれません」
「え?」
彼女はうつむいたままスクールバッグを玄関に投げた。恭子が言うには、彼女が僕の家に帰るところをクラスメイトに見られ、今日それをからかわれたのだという。ちゃんと誰も見ていないのを確認して来ていたのに、と彼女は唇を噛んだ。
胸が傷んだ。彼女がそんな風に、誰かにばれないよう気を遣っていたとは全く知らなかったのだ。
「とりあえず下宿先に帰って、勉強をするときに家に来るようにすればいいんじゃないか?」
「でも」
彼女はそのまま膝を抱えてしまう。彼女が何を言いたいのかは大体分かる。きっと僕が毎晩のようにうなされていることが気にかかっているのだろう。
「……ここにいたいんです、だって時間もないじゃないですか。もう六月ですよ」
「誰か学校で、このことを話せるような人はいないの」
「そんなのいません」
恭子は強い口調で否定する。なんとなく、彼女がここにいたがる理由が分かった気がした。年齢も境遇も違うとはいえ、彼女と僕とは少し似たところがある。
「片瀬さんのお仕事に迷惑をかけてしまうことは分かっています、でももうすぐみんな死ぬんでしょ? じゃあいいじゃないですか」
彼女は顔を上げた。その目には涙が溜まっている。僕は、恭子の肩に置こうとしていた手をだらしなく落とした。
しばらく経つと恭子が下宿先に帰っていないという噂も消えてしまったようで、彼女はまた楽しそうに勉強をするようになった。
「最近また、地球滅亡の話を学校で聞くようになりました」
「僕の高校でもそうだ、ようやくみんな思い出し始めたんだろうか」
「みんな遅すぎますよ、でもこれで、地球防衛軍も拡大するんじゃないですか?」
僕もそれを期待していた。こんなサイトに集まるような人間に到底世界など救えないだろうが、きっと仲良くはなれるだろう。世界のすみっこに集まった、地球滅亡に怯える人間たち。そう考えると、この地球防衛軍のサイトも、なんだか愛おしいものに見えてくる。
「ほら、また一人訪問者が増えてます!」
「本当だ」
「そろそろ科学者が一人くらい、出てきてもおかしくないですよ」
恭子は今もこの地球防衛軍を信じ切っているのだろうか?
七月二九日、とうとう僕の夢に恐怖の大王が姿を現す。それは隕石のようにも見えるし、毒ガスの塊のようにも見える。だだっ広い、濡れた地面の上で、僕は大王と対峙する。大王の口ががぱりと開く。真っ赤な口内。生ぬるい風が僕を撫でる。
「もう自分は独りじゃないなんて、そんな勘違いをしてないだろうな。意味のない妄想だ、彼女は自分がもうすぐ死ぬと信じ込んでいる。俺が殺すんだ」
僕は口を開くことが出来ない。
「あの子は死ぬ前、無性に寂しくなっちまったんだろうな。かわいそうに」
「……」
「地球防衛軍なんて単なるお前の遊びだ。彼女はそれにすっかり依存しちまってる。そうさせたのは誰だ? お前は彼女を利用してるんじゃないのか?」
また、ぴとぴとと冷たい指が僕の頬に触れる。しかし大王の声が小さくなることはない。
「ほら、気づいてしまったらもうそれは効かないぜ。夢ってのは、」
彼女の体温を全身に感じる。きっと暗い部屋の中、彼女は僕を抱きしめている。
「お前の頭が作った世界にすぎない」
僕は目を覚ました。彼女はまた大丈夫ですか、と笑って、部屋を去ろうとする。僕は彼女の背中に呼びかけた。
「もう大丈夫だよ、僕は現代社会が出来るから、きっと恐怖の大王を倒せるだろう」
消し忘れたライトの電球がついに切れる。彼女はおやすみなさい、と呟いて、部屋のドアを閉める。
そういえば、と恭子は思い出したように言った。七月三十日、いつものように地球防衛軍のホームページをチェックしていたときのことだ。
「私まだ、ここでホットケーキ、焼いてませんね」
「ああ、そんな話があったっけ」
「忘れないでくださいよ、明日の朝、焼きますね」
彼女の笑顔がぎこちない。心なしかそわそわしているようにも見える。何か隠しているのか、と問い詰めると、彼女は笑顔を崩さないままで、言った。
「お母さんに、ばれちゃったんです。私が下宿先に帰っていないこと。あのクラスメイトが、先生に話したみたいで」
「そ、それで、どうするの」
しかし彼女はいやに落ち着いていた。バカですね、と言わんばかりの意地悪そうな笑みを浮かべ、続ける。
「今日は何日ですか? もう七月三十日ですよ」
恭子は更新ボタンを連打する。
「お母さんが迎えに来るのは、明日の夜です。その頃にはもう私達、世界を救った英雄になってるか、もうとっくに地球なんてなくなってますよ」
僕は彼女の目を見られなくなってしまう。
「もう十一時ですね、私、寝ます」
十一時を半分回った頃、彼女が僕の部屋にそっと入ってきた。
「……今日は、寝付けないんだ」
少し開いたカーテンの隙間から、月の光が漏れている。彼女は僕の枕元に腰を下ろす。
「きっとやっつけられますよね、恐怖の大王でも何でも」
彼女は僕の頬に触れ、笑う。
「もし――」
地球滅亡なんてなかったら、恐怖の大王なんていなかったら、ノストラダムスの予言が外れたとしたら。言おうとすることがすっかり溶けて、彼女の目に吸い込まれてしまう。
「私、ここに来てから、ずっと楽しかったんです。今までずっと一人ぼっちだったから……」
僕はまぶたを閉じる。
「明日の朝、みんなが恐怖の大王に怯えきってる中で、私達はふかふかのホットケーキを食べて、そして、世界を救うんです」
彼女は僕の肩を抱きしめ、そして静かに部屋を去っていく。
僕は眠ろうと思う。きっと恐怖の大王は明日のスタンバイがあるから、僕の夢に出てくる暇なんてないだろう。地球防衛軍のしてきたことに何一つ無駄はないから、驚くべきスピードで僕達は大王をやっつけることが出来る。そうして僕達は英雄になり、いつまでもこの基地で暮らすのだ。